布と会話し、再び命を吹き込む
春の匂いが漂いはじめた2月下旬、私は額部公民館で開催されていた『文化祭作品展』を訪れた。
公民館活動で制作された作品や、子どもたちの作品が所狭しと並べられた館内。その中に、着物をリメイクした洋服が展示されている一角があった。
布自体に味わいがあるのはもちろんのこと、よく見ると形が同じものは一つもない。しかもそれぞれに何かしらの小技が効いていて、とてもお洒落だ。異なる布の組み合わせ方は自分には思いつかないようなものばかりで、見ていて楽しくなってくる。
「この部分は男の子の晴れ着を使っているんです。その飾りは、布地に穴が空いていたのでつけたんですよ。」
「手縫いだから針目が長いのもあれば短いのもあるでしょう。けれどそれが、その人の味になるんです。きっちり均等にしたいという人もいるけれど、私は『そんなつまらないことしないで』って言うんです(笑)」
朗らかな笑顔で作品を解説してくれたのは、同公民館で活動している「お針子クラブ」の講師・遠藤節子さん。教室では、生徒さんが持参した着物と、生徒さん自身が持つ雰囲気を見た遠藤さんがデザインを提案し、本人の身体に合わせながら、全て手縫いで服を作っているのだそう。
「私は洋裁を習ったことがなくて、直線縫いしかできないし、型紙も作れないんです。でも不思議なんですけど、布地が話しかけてくると言うか…。この人に似合うものにするにはこの布地をどう使ったらいいか?と考えて、頭の中に湧いたイメージをみなさんに伝えているだけなんです。」
作りたい洋服のために布を用意するのではなく、布と人を前にした時にひらめいたものを形にしていく――。そんな感覚を持っている人に出会うことは、そうそうあるものではない。
「お針子クラブ」は人気の活動だと聞いていたが、今回の作品展を見て、遠藤さんのもとに生徒さんが集まってくる理由がよくわかった。
遠藤さん(中央)と「お針子クラブ」の生徒さん。作品展には18名が参加した。
「昔の人が繭から糸をとって織ったことを考えると、とても愛おしくて、破けたり穴があいたりしていても捨てられないんです。私のところに来た布はきっと日の目を見たいんだろうなと思って、普段からこうしてたくさん着ています。」
ひと針ひと針自分で縫った服を着て、古い布への想いを語る遠藤さん。長年こうして服作りをしてきたんだろうな…と思いきや、意外な言葉が飛び出した。
「始めたのはまだ最近なんです。以前は、針を持つとめまいがするくらい裁縫が苦手だったんですよ(笑)」
それがなぜ、教室を開くまでになったのか。
話は、10年前の『あの日』までさかのぼる。
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東日本大震災を機に、南相馬市から富岡市へ。
10年前、遠藤さんは夫と愛猫と共に、福島県南相馬市で暮らしていた。東日本大震災が起きた2011年3月11日は、長女の大学の卒業式に参列するため夫婦で青森県を訪れていたという。
「高速道路は使えない、雪は降っている、道路には亀裂が入っていて、ガソリンはない。そんな状況で青森から南相馬まで帰ってきました。自宅はそれほど大きな被害はなかったので、割れた食器を片付けたりしてから職場に行ったんです。そうしたら、『あなたの家は避難区域に入っているから逃げなさい』と言われて…」
遠藤さんの自宅がある南相馬市小高区は、福島第一原子力発電所から20km圏内の地域のため、避難指示が出されていた。しかし携帯はつながらず、テレビも見ることができず、消防署の呼びかけも自宅まで届かないという状況で、その時は何もわかっていなかったのだ。
「それで避難所の体育館に行ってみると、満杯で全然入れない。私は3〜4日もすれば家に帰れると思っていたから、隣の県まで行けば携帯もつながるだろうと、旅行気分で栃木県に行くことにしたんです。自家発電で明かりが点いているホテルを1軒だけ見つけて、そこで初めてテレビを見ることができました。13日のことです。」
震災2週間後に南相馬の自宅から連れてきた「ぺこ」ちゃん。夫婦の宝物だ。
すぐに帰れると思い、何も持たずに自宅を離れた遠藤さん。しかし避難生活が長引くことがわかり、埼玉県に住むお姉さんの家の近くでアパートを借りることになった。
「アパート暮らしは夫婦の距離が近すぎて、先が見えない不安から喧嘩が絶えませんでした。だから一人になれる場所を作りたくて。針を持てば部屋が狭くても自分の世界に入れるのではと思い、それで洋服作りを始めたんです。」
しかしアパートでの暮らしに限界を感じ、翌年から一軒家を探し始める。低予算で手に入る家をインターネットで検索したところ、2つの物件が浮かび上がった。そのうちの1つが、現在住んでいる富岡の家だった。
「私は何でも、迷ったら買いません。でもこの家は、見に来た時に『ここだ!』と思ったんです。夫も私の性格をわかっているので、それならばという感じで、縁もゆかりもない富岡へ来ることにしました。そうしたらなんと、いい人たちに出会うんです!」
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「地域のみなさんに恩返しをしたい」
富岡市内で出会った家。周囲は静かで、目の前に山が見え、日当たりも良い。
2012年6月、引っ越しを済ませた遠藤さんは、近所の方々への挨拶回りを行う。するとその直後、挨拶に行った家のおじいさんが、ジャガイモを持って遠藤さんの家を訪ねて来たという。
「もう感激して、思わず『私はここに住んでいていいんですか?』と聞いてしまったんです。そうしたら『来てくれてありがとう』と言ってくださって。私、この場所を本当に気に入っちゃって!その方には今も何かと相談をしています。」
その出来事をきっかけに、少しずつ周囲の人たちとの関係性を築いていった遠藤さん。
群馬県内の避難者を訪問支援する仕事に就き、県内の地理にもすぐに詳しくなった。
では、洋服作りを公民館で教えるようになったきっかけは何だったのだろう?
「作った服を着て外を歩いていたら、『素敵ね』『どうやって作ったの?教えてくれる?』と、声をかけてくれた方たちがいたんです。その方たちが、何もできない私の背中を押してくれて、現在のお針子クラブの元を作ってくれました。今も私の支えになってくれています。
そこから、活動の場に公民館を使うことを提案してくださった方がいて、徐々に人数が増えていきました。スタートは5〜6人で夜のお教室だけだったのが、今は昼と夜で合わせて25人くらいいらっしゃいます。最初は、『私のことを先生だなんて呼ばないで!』とずっと拒否していたんですけど…もう諦めました(笑)」
声をかけられるきっかけになった半コート。震災を機に好きなものに囲まれて暮らすことを決めた遠藤さんの想いは、服にも込められている。
「今はスーパーに買い物に行けば、私の姿を見かけて声をかけてくださる人がいる。それがどれだけ有り難いことか。人と話したい時に誰もいない寂しさと言ったら…。
ここに来て、みんなに助けられているということはとても感じています。だから恩返しがしたいという気持ちがあって、今、ボランティアの会を立ち上げようとしているところなんです。」
そう話す遠藤さんの目からは時折、涙がこぼれた。
「震災後、3人の子どもたちの結婚や出産など、我が家にとってはいろんなことがありました。その時は一生懸命になりすぎて、自分の置かれている環境がわからないんですよね。今はこの10年で一番落ち着いていて、だから泣けるようになったのかもしれません。」
家族それぞれの心の葛藤や、心無い言葉をかけられたこと、津波の被害が大きかった地域へボランティアに行った時のことなど、遠藤さんは様々なことを話してくれた。私は辛いことを言わせてしまっていることに申し訳ない気持ちになったが、次の言葉にハッとした。
「話を聞いてくださる方がいらっしゃるということは、私の気持ちが開放されていくので…
本当にありがとうございます。」
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「危機感を持つのは難しい。大切なのは、積み重ね。」
浪江町の伝統工芸品「大堀相馬焼」の湯呑。原発事故により窯元は全て町外への避難を余儀なくされた。
富岡市に住んでいると「群馬は災害の少ない土地だ」という言葉を地元の人から聞くことが多く、私はその度に、(何が起こるかわからないのに…)とモヤモヤした気持ちになってしまう。そのことを遠藤さんに伝えると、こんな言葉が返ってきた。
「危機感はなくて当たり前なんです。震災を経験をしていない人たちに『震災の怖さをわかって』と言っても、難しいですよね。自分の身に起こるかもしれない事として考えるには、誰かの話を聞くだけではなく、訓練をして身体に覚えさせるというのが一番効果があると思います。」
すると遠藤さんは、一人も津波の犠牲者を出さなかった浪江町の小学校の話をしてくれた。海の近くにあったその小学校は普段から津波に備えて、約2キロ離れた避難場所の山まで、児童全員で頻繁にかけっこをしていたという。
「富岡市内でも、土砂災害に備えた訓練の必要性を感じて、動き始めている人たちがいます。そうやって音頭を取る人がいて、土台を作って、ちょっとずつ積み重ねていくことが大切なんじゃないでしょうか。」
●「お針子クラブ」のお問い合わせは、額部公民館(0274-62-0311)まで。
東日本大震災から10年。この節目に、もう一度防災について考える人はきっとたくさんいる。この一時期だけで満足して、また忘れてしまう人たちも。
私は今回遠藤さんに会ったことで、「話を話として終わらせることなく、行動に移し、その行動を継続して積み重ねていこう」という決心が生まれた。
人から聞いた話を、他人ごとではなく自分ごととして考えようといくら努力したところで、その先の行動につなげなければ意味がない。
このタイミングでお話を聞けたこと、そして記事にすることを承諾していただけたことに、心から感謝したい。
(ナカヤマ)