この夏、甘楽富岡地域で撮影が行われたあのドラマにハマった!という方はいらっしゃいますか?
近年はドラマや映画のロケ地としても注目されている富岡市。
「いったいどんな仕組みで富岡市に撮影がやってくるの?」
「ドラマのロケ地ってどうやって決めているのかな?」
そんなギモンが浮かび、調べてみると・・・
映画やテレビドラマの撮影を誘致し、ロケ場所の紹介・手配などを行って撮影のサポートをしている『富岡フィルムコミッション』という非営利団体があることがわかりました。
そこで今回は、『富岡フィルムコミッション』代表の山内まも留さんにお会いしました!
取材を進めていると、山内さんがかなり濃いキャラということが判明しまして(笑)。まずは山内さんご自身のストーリーをひもときながら、進めて参りましょう♪
【山内 まも留(やまうち まもる)さん プロフィール】
富岡市小野地区出身。県内の高校卒業後に上京し、芸能事務所「大川興業」の所属タレントとして数々のバラエティー番組に出演した経歴を持つ。現在は、
◎ 富岡フィルムコミッション代表 ⇒富岡フィルムコミッション
◎ アート工房「天使の翼」代表 ⇒劇団・楽しい家族(工房・天使の翼)
◎ FMふっかちゃん「ファンキー山うっちーのふかや大好き」ラジオパーソナリティ(友好都市である深谷市で富岡情報を発信中!)⇒FMふっかちゃん
◎「富岡しあわせ応援団」団長
などの肩書を持ち、さまざまな分野で精力的に活動中。
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映像とエンターテインメントに魅せられた子ども時代
― 子どもの頃はどんなお子さんでしたか?
山内さん:小さい頃は映画館で一日中過ごしていた記憶があります。というのも、私の父親は競馬が大好きだったんですが、賭けの場に子どもを連れていけないものだから、高崎の映画館に私を置いていっちゃうんですよ。で、一人ぼっちの私は朝から夕方まで映画を見たり、売店のお兄ちゃんに遊んでもらったり、そんな日々を過ごしていたんです。
かわいそうって思われるかもしれませんが、当時はぜんぜん寂しくなくて、「あのときは楽しかったな〜」という記憶があります。いま思うと、映画が身近にある環境で育ったので、エンターテインメントの道へ進むことは自然な流れだったのかな…。
高校生になると、アルバイトで貯めたお金で8ミリカメラを買いました。当時の金額で3万5千円くらいしたかな。そこから自分で映画を撮ることに夢中になり、高校時代は在学校から依頼を受けて野外授業の記録映画も作りました。
― その後、どのようなきっかけで芸能界に入られたのですか?
山内さん:「高校を卒業したら東京へ行きたい!」という気持ちが強くあり、当時親戚が東京でガラス工場をやっていたことから、そこで仕事を始めました。そんな日々のなか、「せっかく東京にい るんだからもっと楽しいことにトライしよう!」ってことで、漠然とテレビに出たいな~って思い始めて。ある日、ものまね番組のオーディションに出てみたらトントン拍子で合格して、テレビ番組に出演するようになったんです。そんなことをしているうちに大川興業から声がかかって芸能事務所に入って、という流れです。あの頃は自分でも強運だったな~って思いますね(笑)。
こちらの学生服は当時の衣装だそうです。
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TV全盛期のお笑い芸人〜フィルムコミッション設立までの軌跡
― 山内さんが芸能界に入ったころは、テレビ業界の雰囲気はどんな感じでしたか?
山内さん:私がテレビに出始めたのは1980年代で、当時の日本はバブル景気の真っ只中でした。「夕やけニャンニャン」と「鶴ちゃんのプッツン5」にレギュラーで出演していたり、「ドレミファドン」「オールナイトフジ」「スーパージョッキー」などのバラエティー番組にも出ていました。当時のテレビ業界は元気が良くて、毎日芸人さんと顔を合わせることも多く、にぎやかで楽しかったです ね。
― 私が子どもの頃に観ていた番組がいっぱい!懐かしいです〜。当時、家族みんなでテレビを囲んで過ごした “昭和の古き良き時代” を思い出しますね。
― そんな華やかな世界で活躍した山内さんは、造形作家としての顔もお持ちなんですね。
山内さん:芸人としてテレビに出て、ワイワイ騒いで忙しい毎日を過ごすうちに、ふと「やりきった感」を感じてしまって。もともと飽き性でいろんなことに興味がある人間だったので、「何か違うことをやってみたい」という思いが湧いてきたんですね。昔からモノづくりやアートにも関心があったので、1990年代は造形作家として『工房・天使の翼』という名前で活動を始めました。
県内外のギャラリーで作品展を行い、芸術活動を続けているうちに、私の作品がある映画監督の目に留まり、その監督から美術協力の依頼を受けたんです。そのことがきっかけで、2000年代になると、映画の現場で大道具を作ったり美術協力をする仕事が増えました。
― なるほど、今度はテレビドラマや映画の裏方のお仕事ですね。いろいろなご縁が繋がるんですね〜。その後の山内さんは、映画に出演もされていますよね?
山内さん:とある映画撮影の現場で、急遽役者さんが来れなくなったことがあったんです。私は美術スタッフとして大がかりなセットを組み立てたのに、撮影できないのはもったいないな、と思っていました。すると監督が「山内さん、代役演じてよ!」って急にセリフを渡してきて。。その時は焦りながらも代役を演じました。
そこからちょこちょこ出演することも増えてきて、2013年には塚本晋也監督の「野火」という作品で大きな役をいただきました。塚本監督とはいろいろなご縁が重なり、その後も一緒に仕事をする機会に恵まれています。
― そして2018年から、『富岡フィルムコミッション』代表としての活動を始められました。
山内さん:自分がいろいろな映画に携わっていくなかで、「富岡は撮影に適した場所だ!」という確信が芽生えました。富岡の豊かな自然や昔ながらの建物は、映像になるととても映えるんですよ。これをうまく活用したい、さらに富岡市を映像の街として価値あるものにしたい、と思うようになりました。そこからは試行錯誤の連続でしたが、なんとか個人で『富岡フィルムコミッション』を設立したんです。
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富岡の魅力を猛烈アピール!
― 富岡のどんなところが撮影に適していると感じますか?
山内さん:富岡市は東京からも近くて、日帰りで撮影できるところも、制作側からすると大きな魅力です。緑豊かで、田園風景や昭和っぽい雰囲気の建物が残っているところも、アピールポイントですね。
― 『富岡フィルムコミッション』が設立されてわずか5年ですが、数々の映像作品のロケ地になっているんですね。( NHK大河ドラマ「晴天を衝け」、池田暁監督「きまじめ楽隊のぼんやり戦争」、内田伸輝監督「女たち」他多数 )これらの作品では、富岡周辺の豊かな自然や富岡製糸場などの歴史的な建物が使われているところが印象的です。
最近では、テレビ朝日ドラマ「ハヤブサ消防団」のロケ地として市内のいたるところで撮影が行われていましたね。
山内さん:「ハヤブサ消防団」に関しては、他の市町村にも強豪のロケ地候補があったんです。しかし私は「この作品は富岡市周辺で撮影してほしい!」と強く思いました。理由は、池井戸潤氏の脚本を読んでビビビッと強い衝撃を感じたからです。そこで、ロケ地候補のオファーを受けてから間髪入れずにドラマ制作スタッフに富岡周辺を案内し、熱意を伝えながら猛烈にアピールしました。そんな攻防戦の末に甘楽富岡地域でのドラマ撮影が決まったときは、本当に嬉しかったですね。
ドラマが放映されてからは反響も大きくて、たくさんの方から「ハヤブサ消防団が面白い!」という声が届いています。
― 最後に、山内さんのこれからの夢やビジョンをお聞かせください。
山内さん:綺麗事を言えば、日本映画史に残る作品の制作支援をしていきたい、これからも映画や映像制作に関わっていきたい、という思いがあります。
2013年に私は〈富岡の大統領〉という肩書で、「富岡にフィルムコミッションを立ち上げる」という公約を掲げていました。当時は、富岡を元気にしたいという思いが強くあったんです。そこから試練を乗り越え、もがきながらも公約を果たし、今も大好きな映画やエンターテイメントの仕事に関わっていられるのは有難いです。人間は愉しまなきゃ損ですから、たくさん笑って明るい人生を送りたい。これからも自分の感性を信じて、楽しく生きていきたいですね。
山内さんの取材で印象的だったことは、撮影時にカメラを向けると一瞬で表情が変わり、役者のオーラを放っていたこと!!
20代からの芸能活動で「演者」と「裏方」を経験した山内さんは、カメラの向こう側で自分が求められている役割を熟知していて、「さすがプロ!」と拍手を送ってしまいました。
「ハヤブサ消防団」の撮影では、ロケ地として甘楽富岡地域の自然の魅力が存分に映し出されただけではなく、地域住民がエキストラとしてドラマ出演もしていました。
ドラマの撮影を通し、ひとつの作品から地域全体が活気づく様子が手に取るように感じられ、「ハヤブサ消防団、この地にロケにきてくれてありがとう!」と嬉しく思いました。
これからも富岡フィルムコミッション、そして山内まも留さんの活動から目が離せませんね。
(マツオ)